連休も本日で最終日です。昨日から雨ですが、最終日には、骨休めに丁度良い加減です。明日から、勤め先で忙しない日常が始まります。毎度のことですが、休日に済ましてしまいたかった諸問題は解決致しません。こういうのを、相も変わらずと申すのでしょうか。興味深い話や出来事がなかった訳ではないのですが。
言葉にしないと 理解出来ないこと。言葉にしたら理解出来ないこと。言葉を媒介した相反する理解へのアプローチがあります。言葉は使いようですが、注意深く正確を期して語っても、それが邪魔をすることは往々にしてあります。そこいら辺がコミュニケーションの難しいところではあります。色彩を言葉で表す時、「赤」と言えば聞いた人のイメージの数だけ「赤」が存在します。厄介ですが、情緒的に伝えたい時は「赤とんぼ」の赤は正確でなくて良いのです。しかしコカコーラの「赤」と言われて、それを正確に記憶したりイメージ出来る方はかなり特殊な人と言えます。一件理路整然とした生物分類学においても、その分類はグラデーション的であり分類は果てしなく曖昧に続くのです。言葉の裏側にある大切で見えない意味については丁度、良いシステムを構築すれば全てがうまく稼働すると思いがちな方々にはなかなか理解出来ないことでもあります。 お金の勘定や、ことの善悪を選別出来ると思っている人は、曖昧な領域には決して踏み込みません。しかし、難しいのは写真、絵画、彫刻、芝居、音楽など芸術と言われるものは、感じたことを言葉として観察し、鑑賞している自分に気がつくのです。映画の記憶も言葉で甦り、イメージが頭を占領しますが、その登場人物の名前が思い出せなく苦労したりします。誠に、言葉は厄介であり、ある種偏見に満ちている訳です。「じっと目を見ろ、何にも言うな」といわれても、心の鏡は目ではなく手だという人もいて、世の中の複雑さを思います。言葉でイメージし、言葉で迷い、言葉で関係性を計り、言葉で決めつけ、言葉で記憶します。記録と記憶は違いますが、言葉がなければ雰囲気や感情など不確かな記憶で流れていく時間を取り戻す事は出来ません。日々、何気なく使用している言葉は便利ではありますが、言葉で言葉を考えることは「あやしうこそものぐるほしけれ」であります。